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天守はいつ建てられたのか?【犬山城シンポジウム ルポ】Vol.6


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お城EXPO 2018

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犬山城シンポジウムのルポ、6回目です。
もう飽きてきた?
いやいや。
もう少し続けますよ!
 
だって、
盛りだくさんだったから。
 
ということで、今回のテーマは、
 
『犬山城天守の謎と新発見』
 
名古屋工業大学大学院教授の
麓 和善先生!
 
この先生、すごい人なんです。
ってか、この方のゼミの歴代の先生方もすごいんです。
 
何がすごいって、
建築史の第一人者で、
内藤先生、城戸先生という大御所が見えたのが名古屋工業大学。
日本における城郭建築史を常にリードしている大学。
 
という、すごい先生の、すごいお話し。
ちなみに、犬山城城郭調査委員会の委員長も務められています!
 
今回のブログは、そんな話です。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

◆ 天守創建年代は、もうわからない?

 
いきなりセンセーショナルな話から入りましたよ、この先生(笑)
 
内藤先生や城戸先生という大御所が、犬山城の創建は天文6年ごろという説を出されていました。
 
昭和の解体修理によって、
美濃金山城移築説は完全に否定され、

①1・2階は、天文6年(1537)ごろ、織田信康によって創建
②3・4階は、慶長5年(1600)、小笠原吉次によって増築
③3階の唐破風、4階の廻縁と高欄は、元和元年(1620)ごろ、成瀬正虎によって改築

という説。
 
これ以上の成果はでない!
というのが麓先生の当初の見解。
 
でも、それでも、何かしらの研究はせねば、ということでスタートしたのだとか。
えらい話ですわ(笑)
そりゃあ、大先輩の研究成果を否定するようなことにはできないし、
新たな発見って言っても、
解体修理以上のことなんて、確かに出るはずもない。
大変な仕事を請け負ったものです。
でも、先生は別の視点から研究されたんですね。
その辺りが、すごい!
 
 
 
 
 

◆ なぜ、望楼型なのか?

 
それは、石垣に答えがありました。
石垣の平面図を見ると、正方形じゃないんです。
台形のような形。
東側が、南に向かうにつれて広がっています。
 
 

f:id:takamaruoffice:20180120174528p:plain:w500
犬山城天守台は正方形じゃない!
 
 
もっとわかりやすいのが、1階の平面図。
 
 
f:id:takamaruoffice:20180120174521p:plain:w500
明らかに正方形じゃない、犬山城天守1階の平面図
 
 
図で言うと、右の下側。
広がってますよね!
 
これ、こういう形にしかできなかったんです。
当時は。
何でかって言うと、
石垣を方形に積む技術がなかったから。
 
石垣の技術は、慶長のころが最盛期。
それ以前は、きれいに積むことができなかった。
だから、犬山城の石垣は古い技術ってことになる。
 
これが、慶長年間に創建されたことにはつながらない一つの理由。
 
で、石垣がきれいな方形をしていないと層塔型天守は建てられない。
それについては、以前ブログで書きましたので、
そちらも参考にしてください。
 
「ぼうろうがた」を解体してみた!
www.takamaruoffice.com
 
 
だから、望楼型。
少なくとも1・2階が古い時代に建てられたということの証拠でもある。
そんなお話でした。
 
 
 
 
 
 
 

◆ 木組みが古い!

 
次に、先生がお話しされたのは
木組み。
 
天守架構図を他の現存天守、現存櫓と比較するというもの。

それを見てみると、

犬山城は、初期望楼型として架構の視点からも古い!

ということが言える。
 
ここは解説が難しいから飛ばします。
しかも図が複雑すぎて、しっかりとはわからなかった( ;∀;)
このあたりは、いつかわかりやすい本が出版されると願いましょう( ´∀` )
 
 
 
 
 
 
 

◆ 柱の加工がおもしろい!

 
最後に、柱の加工の痕跡について。
こんな話は聞いたことがないので、とても新鮮でした。
 
木を切る加工技術の進化の過程を辿っていくと、
天守の建築年代が大凡わかるらしい。
 
木を横に切るのは比較的簡単ですが、縦に切るのは難しい。
柱とか梁とか、縦にずーーーーっと切らないといけない。
これには道具や技術が伴わないといけないようですね。
 
昔は縦にずーっと切るのはむずかしいから、割っていたらしい。
割った面は凸凹になるため、「手斧=ちょうな」という道具である程度の平滑な面にしていた。
さらに進むと、「槍鉋=やりがんな」や「大鋸=おが」という道具が出てきて、
そういったもので表面をきれいにしたり、切ったりしていたそうです。
その後、さらに道具の進化があり、「台鉋=だいがんな」のようにキレイな加工ができるものになっていくようですね。
この辺りは、大工さんじゃないとわからないでしょうし、
現代は機械で切るので、大工さんでも知らない方もいるでしょうね。
 
 
で、犬山城の場合、
1・2階は、「ちょうな」、「やりがんな」、「大鋸」の粗い加工痕が残っている。
 
こういうやつ ↓
 

f:id:takamaruoffice:20180120175708j:plain:w300
犬山城天守1・2階の柱は、加工痕が粗い。
  
一方で、3・4階は、
「やりがんな」、「だいがんな」の
平滑な加工面が主。
こういうやつ ↓
たぶん(笑)
 
f:id:takamaruoffice:20180120175803j:plain:w300
犬山城天守3・4階の柱の加工面は平滑。
 
ということは、
1・2階までは、大工道具や技術が古く、つまり、
 
創建年代が古い
 
ということが言えると。
 
どこまで古いかというと、
およそ室町時代末。
それぐらいまで遡っても良いというのが、麓先生の見解。
 
これ、サラッと言ってましたけど、
とんでもなく凄いことのように思います。
 
だって、室町末ってことは、
1500年後半。
ということは、織田信康が建てたって説を裏付けることになる。
やっぱり、その説が有力そうですね。
 
ただ、麓先生曰く。
もうこれ以上の検証は無理とのこと。
史料も現物も調べつくされた。
 
あとは、柱の年輪を調べて特定するしかない由。
ま、そんなことできるかどうかはわからないけど、
楽しみは取っておきましょうか(笑)
麓先生、興味深いお話し、ありがとうございました!
 
 
ということで、今回はここまで!
 
 
 
 
 
 
 

2017年2月23日
たかまる。


 
 
 
 

  • 写真はすべて、たかまる。が撮影したものです。
  • 図はすべて、たかまる。が描いたものです。
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